社会科学基礎論研究会年報社会科学基礎論研究第1号
特集論文:社会学の根柢を問い直す

「社会学の基礎づけ」とは何の謂いか—「生活世界の学」としての社会学—

本石修二
はじめに
1.基礎づけ関係の形式的理解
2.「基礎づけ」の意味
(1)「正しい知識」への態度
(2) 基礎づけの限界とあらたな可能性
3.「社会学の基礎づけ」とは何の謂いか
(1) 生活世界の矛盾的在り方
(2)「生活世界の学」としての社会学
キーワード:
基礎づけの意味 「正しい知識」 ミュンヒハウゼンのトリレンマ ドグマ ドクサ 科学的世界 生活世界
書誌情報:
『年報社会科学基礎論研究』第1号(2002)、ハーベスト社、pp.43-59

はじめに

 およそ学問は、その本来の意味で学問であろうとするかぎり、自らの基礎づけを要求する。さまざまな学問的な主張は、それがいかなるスタイルであるにせよ自らの正当性の主張にほかならない。つまり、いままで承認されてきた学問的な主張にたいしてあらたな主張がなされるということは、それが理論体系であれ、命題であれ、公式であれ、いままで受け容れられてきたものとは異なった主張として登場してくるのであり、そのあらたな主張は自らの「正当性の根拠」を示すことが求められる。そうしてあらたな主張は、情報として、認識として、あらたな「知識」となることを要求する。こうして学問の「基礎づけ」という作業は、その「正当性の根拠」を示すことを意味する。重要なことは、そのようにして示されたあらたな「正当性の根拠」が受け容れられるかどうかである。
 ここでの課題は「社会学の基礎づけ」である。もちろん小論では、現在の社会学の具体的な主張について、その「正当性の根拠」を示す、あるいは批判するという作業を行うわけではない。ここでの作業は、「社会学の基礎づけ」ということの意味を問うことである。以下、基礎づけ関係のふたつの形式を示すこと(1.基礎づけ関係の形式的理解)から出発し、「基礎づけ」の意味あるいは「正しい知識」への態度(2.「基礎づけ」の意味)を検討する。そこでは基礎づけの限界と可能性が示される。そして「社会学の基礎づけ」という主題にかんして、後期フッサールの生活世界概念に依拠しつつ、その意味と社会学に特有の問題点を提示すること(3.「社会学の基礎づけ」とは何の謂いか)が目的である。こうした作業をつうじて「社会学の根柢を問う」ための端緒が見出せるのではないだろうか。
 ここで「根柢を問う」というモティーフは、その「主題」という意味でも、また「動機づけ」という意味でも、フッサールが「学問の危機」と呼んだ学にかんする歴史認識を共有している。つまり「少なくともその真の学問性、すなわち学問がみずからの課題をはたすための方法論を形成してきたその仕方全体が疑問になった」[Husserl, 1976=1995: 15]という意識である。そしてそこでは、非合理主義や懐疑論を退けながら、みずから学の課題をはたそうとする態度を学問するものの自己責任として自覚することが要請されている。こうした要請に応えようとすることから、「学問批判」という実際の作業がはじまるのであり、ここでの学問論的な「社会学批判」すなわち「社会学の基礎づけ」への問いがはじまるのである。

1.基礎づけ関係の形式的理解

 基礎づけ関係のもっとも単純な形式は「基礎づけるもの」と「基礎づけられるもの」との二項関係である。つまり、一方が他方を「基礎づける」という関係である。ここでは「基礎づけ」の二項関係の各項にかんして、つぎに示すように、ふたつの場合が考えられる。
 まず、「基礎づけるもの」と「基礎づけられるもの」とが同一の場合である。形式的に示せば「AがAを基礎づける」となる。もちろん、ここで「AはAである」すなわち「AはAと同一である」という関係は成立したままであり、つねに保持されている。つまり後項の「基礎づけられるA」に含まれる情報と前項の「基礎づけるA」がもっている情報は、その内容も量もまったく同じであり、基礎づけ関係はAの内部において完結してしまうかのように思われる。そうした意味では、厳密には基礎づけの二項関係ということはできず、自己と自己との関係という意味での自己関係性のうちにあるといえる。こうした自己関係性を含みこんだ基礎づけ関係を自己完結的な基礎づけ関係あるいは「閉じられた基礎づけ」と呼ぶことができる。こうした自己完結的な基礎づけは「基礎づけるもの」と「基礎づけられるもの」との情報量に差がないということから、必然的に同語反復的であり、また静態的である。またこのような自己完結的な基礎づけ関係は、Aの外部にAにとっての他者すなわち非Aが、あたかも存在していないかのように考えられている。つまり、実際にAが存在するとすれば、それは世界のうちにあり、自らの外部に?おおくの他者、すなわちさまざまな非Aが存在し、それらとの複雑な相互関係のうちにあるということを捨象してしまうことにほかならない。
 自己完結的な基礎づけ関係は、推論の妥当性からしても「正当な基礎づけ」とはなりえないことがわかる。まず、「AがAを基礎づける」というとき、こうした自己完結的な仕方で「基礎づけられたA」は基礎づけ以前の「基礎づけられるA」の情報量とその内容にかんしてはまったく変化していない。ということは、自己完結的な基礎づけ関係における「基礎づけるA」と「基礎づけられるA」、そしてその基礎づけの結果として想定される「基礎づけられたA」というこの三者の間には情報に差がないということになる。したがって、基礎づけという過程で「基礎づけられるA」と「基礎づけられたA」との間で情報にかんしては、あらたな情報が発生するといったような変化も生じていないのだから、その形式からして自己完結的な基礎づけは、「基礎づけられるもの」の「正当性の根拠」として受け容れられ、「確信」へと導くために十分な、そしてあらたな情報を供給するという意味での「有意味な基礎づけ」であるということはできない。この自己完結的な基礎づけという作業を行った場合と行わなかった場合とを比較してみても、結果として何の変化も生じないということである。そこでは「基礎づけ」という手続きの?要性を見出すことができないことになる。(これは、後に言及する「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」にしたがえば無限遡及と演繹における循環論法ということになる。)
 こうした自己完結的な基礎づけ関係を、社会学に持ち込むならば、「社会学の基礎づけ」とは社会学が社会学を基礎づける、すなわち社会学は社会学によって基礎づけられるということを意味する。そして、こうした「社会学の自己基礎づけ」と呼ぶこともできる基礎づけの作業は、今まで述べてきてことから明らかになったように、けっして有意味な基礎づけとはならないのである。つぎに、「基礎づけるもの」と「基礎づけられるもの」が異なっている場合である。形式的に示せば「AがBを基礎づける」となる。当然、ここでBはAではない。すなわち、Bは非Aであり、BはAの他者である。こうした事態は、べつの言い方をするならば「自己と他者」の関係であり、すでに述べた「自己完結的な基礎づけ」と対比的にいうならば「自己と他者」の間での自己開放的な基礎づけ、あるいは他者にたいして「開かれた基礎づけ」と呼ぶこともできる。基礎づけ関係にかんして、すでに述べたように自己完結的な基礎づけが、けっして有意味な基礎づけとはならないのであるから、それと対比される形で、有意味な基礎づけの可能性は自己開放的な基礎づけにおいて考えられるのではないだろうか。
 「開かれた基礎づけ」では、基礎づけ作業の前後で「基礎づけられるもの」と「基礎づけられたもの」のもつ情報の内容と量が変化している。「AがBを基礎づける」という場合、基礎づけ以前の「基礎づけられるB」と基礎づけ後の「基礎づけられたB」は、当該の「Bの情報」という点にかんして、「基礎づけるA」がもっている情報から影響を受けて変化しているのであり、基礎づけの前後で「基礎づけられるB」から「基礎づけられたB」へと変容したのである。このようにして「開かれた基礎づけ」によって変容したB、すなわち「基礎づけられたB」は、基礎づけ以前にはなかったあたらしい情報をもっている。そしてそれこそ「基礎づけられた」ということの意味であり、「B」の内容の「正当性の根拠」が示されたということである。
 こうした自己開放的な基礎づけ関係を、社会学に持ち込むならば、すでに述べた「社会学の自己基礎づけ」に対比していえば、社会学は「社会学ではないもの」という意味で諸々の「社会学の他者」に開かれることが有意味な基礎づけの条件となる。ここで「社会学の他者」とは、いわゆる社会学以外の学問領域や専門科学だけではなく、非学問的・前学問的な領域へとひろがっていく。こうした領域を包括的に生活世界と呼ぶこともできよう。(ここでは生活世界を端的に「非学問的・前学問的」という仕方で特徴づけているが、生活世界の特徴的な存在仕方にかんしては、3. (1)「生活世界の矛盾的在り方」において言及する。)これまで、基礎づけ関係にかんして、その二項関係という形式性に注目してきた。つぎに「基礎づけられたもの」すなわち基礎づけられた主張が、あらたな情報として「正しい」と確信されることになった「正しい知識」について、そのあり方をみていく。→続きを読む(頒布案内)

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  1. [戸田山, 2002: 13]参照。[→戻る
  2. 認識であれ、行為であれ、すべてのものは、合理的であるためには基礎づけられねばならない、というのが「合理的思考の古典的方法論の一般的要請」である。こうした要請に応えようとするさいに、H.アルバートは、合理的な基礎づけは、無限遡及、循環論証、恣意的中断というトリレンマ(三者択一)に陥らざるをえないことを示した。このトリレンマは現代の懐疑論的主張ということができる。それにたいして目指されるべき立場は「絶対的な基礎づけ」ではなく、「つねに誤りは可能である」という「首尾一貫した可謬主義(Fallibilisums)」と「批判を免れるものは何ひとつない」という「首尾一貫した批判主義(Kritizisums)」という立場である。[Albert, 1968=1985: 13-22, 56][→戻る

文献

Husserl,E.
1976 Die Krisis der europaäischen Wissenschaften und die transzendentale Phaänomenologie, (Husserliana Bd. VI) 2.Aufl age, Haag, Martinus Nijhoff. = 1995 細谷貞夫、木田元訳『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』中公文庫.
Albert,H.
1968 Traktat über kritishe Vernunft. Die Einheit der Gesellschaftswissenschaften. Studien in den Grenzbereichen der Wirtschafts- und Sozialwissenschaften. Band 9., J.C.B.Mohr (Paul Siebeck), Tübingen. = 1985 萩原能久訳『批判的理性論考』御茶の水書房.
戸田山和久
2002 『知識の哲学』産業図書.
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