ゲオルク・ジンメルの社会学について、それが相互作用(相互行為)論であり、それゆえにミクロ社会学であるという了解が、広く行きわたっているように思われる。少なくとも管見の限り、ジンメルの形式社会学については、ほとんどの論者が異口同音に、つぎのように解説している。すなわち、ジンメルは社会実在論も社会名目論も拒否し、社会を実体でも諸個人のたんなる集合でもなく諸個人の「相互作用」から成り立つものと捉え、社会学はその相互作用をこそ研究すべきであると主張したのだ、と。たとえば居安正は、ジンメルの社会観を約言して「実在するのは社会ではなく諸要素の相互作用のみであり、社会学的な認識もこの相互作用を対象にしてのみ成立する」[居安,2000a: 36,居安, 2000b: 24]と述べ、これを指して社会の「諸要素の相互作用への還元」と呼ぶ。
たしかにジンメルは、「多くの諸個人が相互作用に入るとき、そこに社会は存在する」[Simmel, 1923=1994: 上15]と言った。そして、周知のように、その相互作用の「形式」—闘争・上位と下位・代表・対内結合と対外閉鎖の同時性など—を研究することが社会学の課題であると説いたのである。ジンメルによれば、従来の社会科学の対象は「相互作用する諸力がすでにその直接の担い手を離れて、少なくとも観念的な統一体へと結晶化してしまっているような、社会的現象」[Simmel, 1923=1994: 上14]に限られていたが、いまや「人間の間の繊細な糸、微細な関係」を解明することが問題なのであり、例の大きな客観的な構成体はすべて、この微細な関係の継続的な反復によって基礎づけられ支えられているのである[Simmel, 1923=1994: 上16]。ここだけみれば、ジンメルがたしかに、しばしば言われるように「ミクロ社会学」の立場に立っているようにもみえる。
一方で、ジンメルにとって社会学の「根本問題」は、「個人と社会」であった。そのことは、たんに『社会学の根本問題』—ジンメルが著した最後の社会学書であり、ジンメル社会学のいわば全体構想が示されているとも言える作品—の副題が、文字どおり「個人と社会」であったことからも、推察されよう。同書の中身に立ち入れば、そこでは「一般社会学」「純粋社会学すなわち形式社会学」「哲学的社会学」の3つが掲げられている。そのうち「一般社会学」では、社会という「統一体を独自の生命、独自の法則、独自の性格を有する主体であるかのように取り扱」[Simmel, 1920=1979: 46]うことの妥当性と有効性を積極的に認める立場をとり、また「哲学的社会学」では、冒頭から個人と社会のあいだの葛藤を描いたのち、それについての思想史的考察をおこなっている。ちなみに個人と社会との葛藤・対立は、『貨幣の哲学』や『宗教』などの著作においても論じられており、ジンメルの諸著作の主要なモチーフとなっている。
たとえば『宗教』では、つぎのように描かれている。「社会は全体と有機的な統一体であろうとし、ために社会の各個人はたんに部分にすぎない」。他方、個人は個人で、「自己において完全になろうと」する。ここで社会は「個人にとってはよそよそしい党派のように、要求と執行権とによって個人に対抗する」のである[Simmel, 1912=1998: 276-277]。
これらのことから、ジンメルが社会をたんに相互作用に“還元” したのではなく、個人と対立する社会の“実在” 性—言い換えれば「個人/社会」の二元論—にも十分なリアリティを認めていたことは明らかだろう1
。その「社会」は、たんに諸個人の相互作用に還元しつくされない、ジンメル自身の言葉を使えば「独自の生命」をもったものとして表象されているのである。
そこで、ジンメルにおける、社会を相互作用へと還元する認識を、ここでは〔社会=相互作用〕認識と呼ぼう。一方、社会全体を固有の実在であるかのようにみて個人と対立させる認識を、ここでは〔個人/社会〕認識と呼ぶことにする。ジンメルの社会学に共存するこれら2つの社会認識、すなわち〔社会=相互作用〕認識と〔個人/社会〕認識とは、どのような関係にあるのか。本稿は、その問いを追究するものである。
この問題については、つぎのようなごく単純な解決を下すこともできる。すなわち、いわゆる相対主義の立場に立っていたジンメルにとって、いずれの認識もたんなる抽象のレベルが異なるにすぎないので、かれは両者のいずれにも権利を認めていたいたのだ、と。現にジンメルは、『社会学の根本問題』—以下『根本問題』と略記—における方法論的な考察のなかで、遠近法のアナロジーを用いてつぎのように言う。
人間存在の或る領域の「近く」へ行くと、各個人が他の個人からハッキリ区別されて見えて来るけれども、観点を遠くへ移せば、個人そのものは消えて、独特の形態及び色彩を帯び、認識および誤解の可能性を含んで、「社会」というものの姿が浮かび上って来る。この姿は、諸個人が目立って見える姿に比べて、決して権利が劣っているものでもないし、また、その単なる予備段階というわけでもない。ここに存在する差異は、単に異なった認識目的の間の差異であって、それに応じて、距離の取り方が違うのである。[Simmel, 1920=1979: 18]
このような認識の原理を前提にして、一般社会学と形式社会学—『根本問題』では「純粋社会学」と名づけられている—との問題領域の区別がなされている。すなわち、一般社会学は、諸個人の行為や性質とは異なる集団的な行為・性質の特徴を問題領域とするものであり、そこでは社会の内部構造はすでに前提されており、問題とされない。これに対し、形式社会学は「別の方向から科学的抽象を加え」[Simmel,
1920=1979: 38]、社会を諸個人間の相互作用とみる認識に立って、その相互作用の諸形式を研究するものである。前者は人間の社会生活を、いわば「遠く」から眺めることによって得られた対象領域であり、後者はそれをより「近く」で見たものと言えるだろう。
早川洋行[1988]によると、ジンメルの社会学的抽象には3つの原則がある。すなわち、(1) 相互作用以前の個人心理を捨象する、(2) 認識者と対象との空間的・時間的な「距離」にしたがって抽象のレベルが決定される、(3) 相互作用がおこなわれている際、相互作用に対応しない心理を捨象する、というものである。そのうえで早川は、とくに第2の原則に着目する。かれはこの原則における抽象のレベルが、ジンメルの挙示したつぎのような3つの原理的な観点に対応するとみるのである。すなわち、(1) 個別的な生存者、(2) 形式的な相互作用形式、(3) 状態や生起についての概念的に定式化可能な内容、の3つである。そしてそれらを、ジンメルの『社会学』において実際に扱われている「諸形式」に対応させる。いわく、ジンメルは (1) の観点として個人類型—異邦人や守銭奴—を、(2) の観点として関係形式—闘争や交換・贈与—を、(3) の観点として社会(文化・集団)形式—集団の拡大や社会圏の交差—を考えたのだ、と。早川は、のちの『根本問題』では、これらのうち「第三観点が一般社会学に発展し、第一観点、第二観点は、純粋社会学に再整理されたと考えるのが自然だろう」[早川, 1988: 98]と言う。 このように整理したうえで、早川は最後につぎのような問題を指摘する。「ジンメルの論理では、部分の『社会化の形式』と全体の『社会化の形式』がどのように連関するのかという点、すなわち抽象のレベルの違う『社会化の形式』相互の関係が、不明瞭なままで、大きな弱点になっている」[早川,1988:
99]2。
個人、諸個人の相互作用、そして「全体」としての社会。それらを観察者による抽象レベルの相違と言い切るジンメルは、たしかに賢明ではある。しかし、それらを単なる抽象レベルの相違に解消して済むのであれば、今日の社会学理論が「ミクロ−マクロ問題」などにかかずらうことはなかったはずである。ところが、「ミクロ−マクロ・リンク」を積極的に論じている主要な論者たちは、「ミクロ/マクロ」があくまでも分析上の区別であるという、ジンメルと共通した了解から出発して、そのうえでさらに、両水準のあいだを媒介する論理を問題としているのである[たとえばAlexander
& Giesen, 1987=1993]。してみれば、ジンメルにおけるすでにみた2つの社会認識についても、同様のことを問う余地が残されるだろう。
たとえば、こんな問題を設定してみても良い。超個人的な全体としての社会は、諸個人の相互作用の総和として考えられる—つまり完全に相互作用に還元できる—のか否か。→続きを読む(頒布案内)