シカゴ学派社会学の系譜をおおまかに捉えると、初期シカゴ(1910-30年代中心)、セカンド・シカゴ(1946-80年代中心)、そしてセカンド・シカゴ以降(1990年代〜)のそれぞれの山を指摘することができる。「初期シカゴ」は筆者の命名でもあるが、いわゆるシカゴ・スタイルの定礎を築いたスモール(Small, A., 1854-1926)、トマス(Thomas, W.I., 1863-1947)、ミード(Mead, G.H., 1863-1931)らの初代社会学者らの巨峰、実質上のシカゴ学派社会学を形づくったパーク(Park, R.E., 1864-1944)、バージェス(Burgess, E.W., 1886-1966)、マッケンジー(Mackenzie, R.D., 1885-1940)、そしてワース(Wirth, L., 1897-1952)、ヒューズ(Hughes, E.C., 1897-1984)らの社会学者集団を指摘することができる。第二次世界大戦後を境として、シカゴ社会学は一本の太い流れとしてのアメリカ社会学の発展過程と呼応して、社会学上の方法刷新と対象領域をひろげた「セカンド・シカゴ」と命名される新しい画期を迎えるに至る[Fine, 1995]。セカンド・シカゴはアメリカ社会学制度化(institutionalization)への道を辿ることでもあるが、そこではハーヴァード、コロンビア等の東部の大学とは距離のあった初期シカゴのスタイルは追憶の対象として語られ、東部の大学とも連携しながらアメリカ社会学の制度化への一翼をになうことになる。初期シカゴの人と作品群に学んだ外国人社会学者がシカゴ大学の社会学棟を初めて訪れたとき、そこには初代の巨人社会学者らが肖像として研究室に飾られ、熱い議論が昼夜を分かたず交わされた社会調査室のしずかなたたずまいに、違和感を覚えるに違いない。多数の現役シカゴ社会学者がリスト・アップされているが、とくに面会を求めたい巨人社会学者が不在であることに、先ずは驚かされる。セカンド・シカゴの流れは、アメリカ社会学近代化と即応しているが、もともとは退潮傾向の初期シカゴのルネサンスを含意していた。このルネサンスの契機も、アメリカ社会学の制度化の流れに組みこまれていったが[奥田,1999: 1-28]、しかし1990年代を画期として、制度化から社会的異質・多様性(social diversity)認識が求められだした。「制度化→異質性認識」の流れは、大都市のシステム理解から見れば、これまでの一本の太い流れとしての右肩上がりの「大都市成長・発展シナリオ」が終焉して、「大都市衰退・再生シナリオ」がテーマ化されだすことでもある。「大都市成長・発展シナリオ」を20世紀システムとすれば、「大都市衰退・再生シナリオ」を21世紀システムと読むことができる。
「大都市の衰退と再生」のテーマは、アメリカ中西部、東部の既成大都市ではすでに1970年代に意識されているが、とくに「大都市衰退地区の再生」をめぐる都市社会学、都市政策上のテーマは、「都市ネイバーフッドの再活力化(revitalizing urban neighborhoods)」「維持可能な都市コミュニティ」その他と並んで、21世紀システムの避けて通れない関門をなしている。21世紀システムの大都市像を筆者は「錯綜体都市」の様相と名付けているが、この「錯綜体都市」のグラスルーツ版としてのコミュニティと合わせると、シカゴ都市社会学は上からの制度化以後のどのような接近を試みるのであろうか。
大都市成長・発展の20世紀システムのもとでは、「都心」と「郊外」の二極分解と、この「都心」と「郊外」のはざまに沈む「大都市インナーエリア」が、いわゆる周辺地区、灰色地区として初期シカゴの調査研究の対象として焦点化されていた。大都市インナーエリアが海外移民、南部農村から移動の黒人の吹き溜まり=スラム、ゲットーとして位置づけられていたことは、周知の事柄である。初期シカゴにとって社会的実験室に当たる大都市インナーエリアが、スラムや社会解体諸現象調査研究の焦点をなしたことも、改めて述べるまでもない。とくに初期シカゴ学派の都市社会学研究が、社会病理学、都市病理学部門とイコール視された理由の一端が、ここにある。
21世紀システムに入って大都市インナーシティは、初期シカゴ当時の大都市インナーエリアとは著しく様相を異にしながらも、都市社会学研究の最前線に当たる磁場の役割を担っている。例えばアメリカ大都市では、大都市インナーシティが郊外移住者の二世の層のインナーシティへの復帰(Back-to-the City)を迎えるとともに、海外移民も貧しい出稼ぎ型外国人労働者ではなく、能動的、積極的な生き方と都市的生活様式を身に付けた出身国での「中の上」層を背景としてきている。わが国でも東京や大阪の大都市インナーシティを中心として1980年代中後期以降「団塊」としてのアジア系ニューカマーズを迎え入れている。彼らの能動的な生き方とスモール・ビジネスおこしを含め地域貢献面が、衰退地区の再活力化に繋がっていることは、各種実態調査を通して明らかにされている。また、越境ニューカマーズのパーソナル・ネットワークを回路として、大都市インナーシティ相互のトランスナショナルな比較も可視的になっている。
セカンド・シカゴの時代と社会の類型にあっては、その調査方法とアウトプットの表現様式において厳しいアセスメントにさらされた初期シカゴも、21世紀システムに入ってそのリアリティの捉え方において新しい読みと発見が試みられるようになった。社会学モノグラフとしての表現様式においても、例えばセカンド・シカゴにあってBoys in White - Student Culture in Medical School その他の意欲的モノグラフをチーム編成で相次いで刊行した。晩年のヒューズの指導を受けたゴフマン(Goffman, E.)は、エスノメソドロジカルな方法を開発して、会話分析その他を駆使しての社会学モノグラフをシリーズで発表している。ホワイトの『ストリート・コーナー・ソサエティ』(以下、SCSと略記)を批判的に継承した、ボストンのウエストエンドの参与観察を試みた『都市のムラ人たち』(1962, 1982)のガンス(Gans, H.J.)その他、異色の社会学モノグラフがシリーズで刊行されている。ポスト初期シカゴの新版ともいうべきサトルズ(Suttles, G.D.)の『スラムの社会的秩序─インナーシティのエスニシティと境域』(1968)、『コミュニティの社会構成』(1972)、ハンター(Hunter, Albert)の『シンボリック・コミュニティ』(1974)その他のシリーズにも注目される。
これらのシリーズは、初期シカゴの新しい読みと発見を促す結果となっている。シカゴ学派内部の社会学者で学会誌 A. J. S. の編集長も長年務めたアボット(Abbott, A.)がディタッチドな視点からシカゴの人と作品、あるいは人的ネットワークをめぐる100年の歴史を一冊にまとめあげている[Abbott, 1999]。その折々のシカゴニアンの言説や人的ネットワークをふくめ興味あるシカゴ社会学100年史、あるいはシカゴ・スクールの歴史社会学の様相を開示している。→続きを読む