社会科学基礎論研究会年報社会科学基礎論研究第4号
連載[社会学の現在4]フーコーと社会的構成

『監獄の誕生』にみる「犯罪性」という自明性について

赤池一将
1.「自明性」への関心
2.「違法行為」の系譜と犯罪の「自明性」
(1)  違法行為の二分化
(2)  「犯罪性」という仕掛け
(3)  監獄の成功
3.「犯罪性」概念と政策の自明性
キーワード:
自明性、ディスクール、フーコー、犯罪性、監獄、刑罰、拘禁
書誌情報:
『年報社会科学基礎論研究』第4号(2005)、ハーベスト社、pp.114-131


 フーコーの数々の仕事に共通しているのは、対象領域における自明性les catégories d'évidenceの成り立ちを徹底して追及する点にある。『監獄の誕生』[Foucault,1975=1977]1 は、監獄を制度としての歴史としてではなく、「拘禁という実践」の歴史として描く。そして、「拘禁」という古くからあった実践が、どのようにして、ある時点で刑事司法メカニズムの骨格として受容され、その状況が自明なものとして捉えられるようになったかを問い、監獄という形で現象する「拘禁という実践」が構築する自明性とはなにかを示している。

 本稿では、フーコーのこの検討を、特に分析の中核的概念となる「違法行為l'illégalisme」と「犯罪性la délinquance」という2つの概念に着目しつつ改めて整理し、犯罪の「動機」や「原因」への自明な関心がいかにして近代社会の構築とともに整えられてきたかを検討することにする。犯罪学の昨今の論調は、「犯罪の増加」というディスクールの構築過程や、さらには「犯罪」の概念的形成を問い返す試みよりも、端的に犯罪の「動機」や「原因」への関心の放棄を表明し、統計的に一定の「根拠=エビデンスles évidences」をもつ犯罪発生の「実効的な」コントロールを説くものに傾きつつある。ある意味では、新しい「原因論の危機」が登場しているとも言えよう。「動機」や「原因」への関心が犯罪学の「学」的構成に占める役割を、いまこそ確認しておく必要があるのではなかろうか。そこで、まずは、自明性への関心が、フーコーの思考においてどのように位置づけられるかを、その方法論の変遷からごく簡単に整理する。

1.「自明性」への関心

(1)  フーコーは、エピステーメépistémèを、『言葉と物』[Foucault, 1966=1974]において、ある時代における知識を秩序づける構造として捉え、「考古学archéologie」についてこの概念を軸とした説明を行った。人間の認識活動は、ある時代、ある集団において必ず一定のエピステーメによって規定される。通常、自明と考えられ、自覚されざる知識の枠組みの痕跡を、それが消えた後の時代に発掘する歴史の書き方が「考古学」だというのである。

 エノンセénoncé、ディスクールdiscoursなどの概念は、このエピステーメの概念の適用範囲を厳密に限定するために提示される。フーコーの行う定義に従えば、エノンセとは、行為によって実際に語られたものを意味し、これが集まり、ある全体的なまとまりを構成する場合にディスクールとなる。しかし、エノンセの集まりがそのままディスクールとなるわけではない。同じく「犯罪」に関するエノンセであっても、デュルケム的エノンセは社会学のディスクールに属するものとされ、裁判所の法解釈学的なエノンセは、法律学のディスクールに位置づけられる。問題は、まず、ディスクールをディスクール足らしめる統一性の構成がいかに行われるか、換言すれば、1つのディスクールの領域から、一定のエノンセがいかにして排除されるのかという点に求められる。

 例えば、『監獄の誕生』は、出版時に歴史家から厳しい批判を浴びたわけであるが、その主要な論点は、この書物が19 世紀前半における刑罰分野への監獄の登場を、それまでこの分野の検討において取り扱われることのなかった18 世紀の学校での諸々の規律の実践から検討したこと、あるいは、逆に、19世紀前半の刑罰に関する書物が一様に扱った「死刑の適用に関する1832年の法令」をその検討から除外したことなどに向けられるものであった。フーコーは、なぜこの2種の資料選択が「当然に」専門家集団の批判対象となるのか自体を徹底的に問題にするのである[Foucault, 1994: 13=2001: 153]

 ディスクールを、「語られたエノンセ」と「語られなかったエノンセ」の差異として定義する考え方は、あるエノンセが語られるための、ディスクール内部の、諸ディスクール間の、そして、ディスクール外部の条件の探求へとその関心を導いていく。「考古学」では、例えば、なにが狂気とみなされ、なにが非-狂気とみなされるか、あるいは、なにが精神疾患とみなされ、なにが正常な振る舞いとみなされるか、その分割のルールの危うさを明らかにすることに関心がおかれた。しかし、1969年の『知の考古学』[Foucault, 1969=1981]を経て、彼の関心は、むしろ、いかにしてそうした分割が行われ自明なものとして捉えられるにいたるかを、そして、こうした分割を可能にする諸条件を明らかにする方向に向かう。そこでは、ある事物について語り、また、ある命題の真偽を判断できるような一定の対象領域、すなわち、実証性positivitéが、ディスクールによっていかにして自明なものとして形成されるかが問われる。こうした観点からの分析をフーコーは「系譜学généalogie」と呼んだ。

 したがって、「系譜学」においては、ディスクールの種々の系列がある実定的な対象領域を形成するものとして具体的に編成される仕方、あるいは、存在するものが、それを通して語られうる(=考えられうる)もの、語られるべきものとされる問題化の様式と、それを支える実践のあり方が問われる。特に、語る次元、あるいは、ディスクールという次元の外にある実践(非ディスクール的実践)がその考察の重要な対象となる。この実践は、例えば、社会的、政治的、経済的事象を対象としながらも、そうした既成の学問領域が措定してきた分析基準にとどまるものではない。それは、社会制度により指図され、政治イデオロギーにより規定され、あるいは、経済状況により導かれるものではなく、ある程度までは、個々の実践に固有の規則性、論理、そして「自明性」をもつ仮説に基づくものとして捉えられる。フーコーは、特に、他者の行為を統御する、その意味で権力的な非ディスクール的実践について、そうした「実践の体制」の独特な技術形態を問題とした。「実践の体制」の分析は、社会において人々が他者の行為ないしは振舞いに働きかける独特の技術形態、つまりは社会的な統治・支配のプログラミングの分析に?ならない[Foucault, 1994: 22=2001: 165]

(2)  刑罰メカニズムを対象に、その「自明性」を考えるのであれば、処罰対象を精神に措定する「刑罰についてのディスクール」(ディスクール的実践、つまり、エノンセの取捨とディスクールの編成を通して行われる刑罰についての実証性の構築)とこれを身体に求める「拘禁」(非ディスクール的実践)が、互いに自律的領域を保ちながら、相互に自らのあり方を規定しあっている状況を取り上げる必要が生じよう。フーコーは、こうした関心から、『監獄の誕生』における分析を以下の4つの基本原則に従うものとして提示する。それは、第1に、刑事司法のメカニズムを、その刑罰効果や制裁としての観点からのみ捉えるのではなく、一見したところ周辺的な結果であれ、そのメカニズムから導かれる一連の積極的な結果すべてのなかに置きなおし、複合的な社会的機能の観点から把握すること。第2に、このメカニズムを分析するに際して、これを法規の単なる所産として、あるいは、社会構造の指標としてではなく、より一般的な場における権力の他の特性を備えた技術として捉え、処罰を政治的技術という観点から把握すること。第3に、刑法の歴史と人間諸科学のそれとを基本的に分離した2つの系列として扱うのではなく、両者に共通する母胎ないしは共通する法的認識論の形成過程を探求すること、つまり、上述の権力の技術を、刑罰制度の人道化の原則とともに人間認識の原理のうちに位置つけること。そして、最後に、刑事司法という場への近代精神の登場と、これにともなう司法実務への科学的な1つの知全体の組?込みが、権力関係による身体の掌握手段の変化の結果であるかどうかを探求すること、である[Foucault, 1975: 28=1977: 27-28]→続きを読む(頒布案内)

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  1. 周知のごとく、翻訳は原書のタイトルと副題とを入れ替えている。なお、引用に際し、訳語を一部変更した箇所がある。近年、フーコーの思考を紹介しつつ、その意義を種々の観点から検討する研究は数多く発表されている。中山[1996]、今村・栗原[1999]、内田[1990]、杉田[1998]等参照。[→戻る

文献

Foucault, M.
1966 Les mots et les choses: une archéologie des sciences humaines, Gallimard.=1974 渡辺一民・佐々木明訳『言葉と物─人文科学の考古学』 新潮社.
1969 Archéologie du savoir, Gallimard. =<1981 中村雄二郎訳 『知の考古学』 河出書房新社.
1975 Surveiller et punir: Naissance de la prison, Gallimard. =1977 田村俶訳『監獄の誕生─監視と処罰』 新潮社.
1994 "Table ronde du 20 mai 1978," in: Dits et écrits, Tome IV (édition établie sous la direction de D.Defert et F.Ewalt), Gallimard. =2001「1978年5月20日の会合」『ミシェル・フーコー思考集成 VIII』 筑摩書房.
1994 "La poussière et le nuage," in: Dits et écrits, Tome IV (édition établie sous la direction de D.Defert et F.Ewalt), Gallimard. =2001「塵と雲」『ミシェル・フーコー思考集成 VIII』 筑摩書房.
今村仁司・栗原仁
1999 『フーコー』 清水書院.
Lascoumes, P.
1986 "Le grondement de la bataille: Illégalismes et relativité des catégries juridiques pénales dans «Surveiller et punir»," Actes, no. 54.
1996 "L'illégalisme, outil d'analyse," in Michel Foucault Surveiller et punir: la prison vingt ans après (Sociétés & Représentations, no.3), CREDHESS.
中山元
1996 『フーコー入門』 ちくま新書.
杉田敦
1998 『権力の系譜学─フーコー以降の政治理論に向けて』 岩波書店.
内田隆三
1990 『ミシェル・フーコー』 講談社現代新書.
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