『自己への物語的接近』コメント

杉本 学(名古屋大学大学院)

 本書で提起される「物語論的アプローチ」は、「自己」が物語を通して生み出されるとみる点で、構成(構築)主義の考え方と共通している。しかしそのうえで、著者の「物語論」には次のような独自性があると言えるだろう。構成主義による自己論が、あくまでも言語的に構成された現実として「自己」というものを捉えるのだとすれば、それに対して本書で提起される「物語論」は、構成主義からすれば「語られ得ないがゆえに、構成されておらず、したがって『現実』ではない」[p.205] ような体験に、むしろスポットを当てようとするのである。
 そこで、「語り得ないもの」あるいは「語り得なさ」が本書のキー概念になるが、まずはそれについて考えてみたい。いったい「語り得ないもの」とは何だろうか。
 まず確認しておくべきことは、「語り得なさ」は「語り尽くせなさ」とは違う、ということだ。著者はその違いを次のように言う。
 「体験された現実があまりにも複雑すぎて特定の物語によってはすべてを語り尽くすことができないということを指して『物語り得ない』といっているのではない」[p.14]。そうした「語り尽くせなさ」に対して「語り得なさ」とは、「まさに自己物語のただ中に現れてくるようなものであり、自己物語が達成しようとする一貫性や完結性を内側からつき崩してしまうようなものだ」[p.15]。あるいは、「自己物語の外側ではなく内側にある変化へのきっかけ、これがここでいう『語り得なさ』なのである」[p.15]。そして、自己物語の「十全な一貫性や自己完結を内側から阻むような『穴』」[p.16]と比喩的にも表現されている。
 しかし、「語り得なさ」「語り得ないもの」が何であるのか、いまひとつ判然としない。そこで、他の概念との関連でみていってみよう。「語り得ないもの」は、家族療法の「脱構築的アプローチ」のいう「ユニークな結果」と重ね合わされる。曰く、

 「ユニークな結果」のこのような効果を考えると、これを一般的に「語り得ないもの」 と ?よぶことができる。それは自己物語の中にあって、語られ損ね、筋立てに登録され損ね、あげく物語をつまづかせてしまうような「穴」のようなものだ。[p.109]

 では、「ユニークな結果」とは何かというと、それは「ドミナント・ストーリーの外側に汲み残された生きられた経験」(White & Epston)だという。
 「語り得ないもの」がどんなものであるかについては、さしあたり了解したとして、さらに本書の理解にとっては極めて重要な、「自己言及のパラドクス」との関係について問題にしたい。「自己が自己を語る」ということそこには、「語る自己」と「語られる自己」とがありながらも、それらが同じ自己であるという奇妙な構造がある。そして、自己物語のそうした構造に十分着目するのが著者の「物語論」の強みであったはずだ。では、「自己言及のパラドクス」をそういうものと理解したとして、それと「語り得ないもの」はどのように関連しているのだろうか。じつは、そこのところがよくわからないのだ。 「語り得ないもの」を「トラウマ体験」といわれているものに限定するなら、「自己言及のパラドクス」との関連は比較的理解できる。たとえば、ユダヤ人がナチスドイツから被った迫害の体験、大災害の被災体験、虐待やレイプを受けた体験、などなどノ。それらの場合、「体験があまりにも深く語り手をとらえてしまい」、「語る私」と「語られる私」という「二つの視点が端的にショート(短絡し融合)してしまうがゆえに物語が消失してしまう」のである[p.19]。それ以外に、具体的にはどんなケースを考えれば良いのだろうか。そして、それが自己物語の「外側ではなく内側にある」とはどういうことか。
 ところで、本書で筆者が提出してきた物語論的アプローチは、通歴史的・通文化的な射程をもつものなのか、それとも、個としての「我」が重要視されるようになった「近代社会」とりわけ無数の小さな物語が欲望されている「ポスト・モダン状況」にたいする診断としてのみ、意義をもつのだろうか。むろん、著者が本書の最後に示されたように、またすでに別稿(浅野[1993])で試みられているようにこのアプローチを「比較社会学」へと拡張することを企図していることから、「物語論的アプローチ」がある特定の社会にのみ適用できるものとして構想されたのでないことは、十分に明らかだろう。ただそれでも、いわゆる「物語」ではなく、「自己物語」という特殊な形式の一般性は、十分に問われて良いだろう。その際、とくに「自己言及のパラドクス」「語り得ないもの」がいかに現れるか、あるいは現れないのか「語り得ないもの」について言えば、本書の論述からはそれが一般性をもつもののように感じられるという点は重要になるはずだ。たとえば、著者の1993年論文「回心を語る『私』」で分析されているサンタ・イザベルの社会における「われわれ」の回心物語は、本書で言われる「自己物語」と同様の意味で「自己物語」なのであろうか。

[↑ページ先頭]|[→報告1][→報告2]