1、現在主義としてのシンボリック相互作用論
本書は、『プライバシーの社会学』(片桐[1996])、『自己と「語り」の社会学』(片桐[2000])に続く自己論三部作の完結編をなすものと著者自身によって位置づけられており、また副題にも「自己論からの展開」とある。したがってこれが自己論における重要な著作であることは言うまでもないことだと思われるが、ここではあえてタイトルにある「過去」と「記憶」に焦点を合わせて議論してみたい。すなわち、「過去」の社会学と「記憶」の社会学との関係について問うてみたいのである。
本書のみならず自己論三部作を通して著者の理論的立場は揺らぐことなく一貫している。いわゆるシンボリック相互作用論がそれだ。その理論的立場の要点は、第一に「自己は自己を定義するさまざまなシンボルによって構築されるものだ」と考える点、第二に「同時にそのような定義づけは・・・相互行為の所産である」と考える点にある(片桐[2003:1])。とりわけ後者の点は、三部作のどの著作においても自己の構築がシンボルのスタティックな体系に自閉するものではないことを強調する上で重要なポイントであるとされている。
他方、自己は過去から現在に至るそして現在から未来へと向かう時間的な存在として理解される。この時間性を帯びた構築は著者によれば物語という形式によって行なわれるという。すなわち、
「自己は、このような現在の観点から過去のさまざまな出来事を位置づけ、また未来を展望する時間的な物語に位置づけられることによってその同一性を獲得する。」(片桐[2003:11])
もちろんこの物語は現時点での相互行為の中で語られるのであり、常に文脈依存的な構築作業として遂行されているわけである。記憶も、著者の考えによれば、このような語りにおいて生成するシンボリックな構築物である。
このように記憶を現在からの遡及的再構成と考え、想起を相互行為に埋め込まれた協同的な営みとみる見方は、近年心理学においても支持を集めつつある物語論的記憶研究と軌を一にするものだ(Fivush & Haden[2003])。また、記憶を心的な現象としてよりも公共的な現象として把握するという点でクルターや西阪らの視点とも通じるところがある(Coulter[1979=1998]、西阪[1992])。これが、記憶現象への社会学的・社会心理学的アプローチとしてきわめて有望なものであることはいうまでもない。
しかし、ここで強調しておきたいのは、以上のようなシンボリック相互作用論の立場が現在主義的な志向性を抜きがたくもっているということだ。その立場からすると、記憶は、過去に関わるものというよりも、相互行為が遂行されつつある現在にこそ関わるものとされるのである。言い換えると、そこで語られる「過去」も「未来」もともに現時点からの遡及的あるいは予期的な構築であり、いわば現在の従属変数のようなものとなる。例えば著者は、自分自身の立場をラディカルな構築主義から区別するという文脈で、「過剰で生成する自己」(片桐[2003:19])のあり方を強調するが、それでさえもまた現在の関係において現れてくるものだ。つまりシンボルによって構築されるものであれ、そこからはみだす「過剰」なものであれ、いずれにしてもそれらは「現在」という時制において把握されている点では同じ範疇に入るものなのである。
このことは本書の中で何度か言及される前方性健忘症についての事例からもうかがわれる(例えば、片桐[2003:76])。ついさっき自分がしたことを次々と忘れ去っていったとしてもそれなりに生活が成り立つのは、必要な記憶が他者との相互行為において調達されているからだ、というのが著者の主張であろうと思う。ここでは記憶とは消え去っていく過去にではなく、想起が埋め込まれた現在において把握されるべきものと考えられているのである。
この観点から「歴史」を研究対象とするなら、それが「リソースとしての歴史の参照」(片桐[2003:145])という形で把握されるのも当然のなりゆきであろう。「記述としての歴史」に対する「出来事としての歴史」の存在する余地を一応は認めつつも、著者の理論的立場からすれば、最終的には「物語という言説化を通してしか歴史的な過去は人々にとって意味あるものとして立ち現れてこない」(片桐[2003:143])ということになるのだから。そしてまたこのような「リソースとしての歴史」がメンバーシップの問題に結びつけられるのも、現在主義的な志向性のもう一つの現れであるといってよいであろう。メンバーシップとはまさに現在のつながりのことであるからだ。
記憶が想起という営みと不可分であるとするなら、そして想起がつねに<想起する現在>の相互行為に埋め込まれている以上、それはたしかに現在主義としてのシンボリック相互作用論の適切な対象であるだろう。つまり「記憶」の社会学はまさにシンボリック相互作用論として展開され得るのである。では、「過去」はどうか。
2、構築主義の二層構造と「過去」
構築主義をめぐる様々な議論が依拠する図式の一つとして<出来事それ自体/社会的構築>という二項対立がある。例えば社会構築主義の代表的理論家中河伸俊は、感情の社会学をとりあげ、クルターの議論を参照しながら、次のように指摘する。
「感情の生理的な基盤の問題についていえば、クルターは、感情は生理的過程から完全に切り離されたまったく可塑的なものだとはいえないが、生理的過程と対応関係があると思われる感情は数少ないし、そんなことを気にしなくても構築主義的な感情の研究は十分成立する」(中河[1999:213])
<生理的な過程>は、構築主義的な視点からみれば冗長な概念なのだということであろう。この<生理的な過程>が<出来事それ自体>にあたるものであり、それを除外しても構築主義的な分析の対象(上で<社会的構築>と書いたものがそれだ)は残るとされるのである。
著者も、前著『自己と「語り」の社会学』の中で感情の社会学について論じた際に生理的な過程とその社会的構築という二つの水準をどのように調整すべきか、と問題をたてている(片桐[2000:80])。この問いに対して、著者は、丸山圭三郎の「言分け」(言語による分節化)と「身分け」(言語以前の身体レベルでの分節化)という枠組を引用しつつ、こう答えている。
「感情が言分けによって成立することを前提としつつも、それが身分け的な根拠をもつことをまったく否定するものではない。」(片桐[2000:82])
「言分け」と「身分け的な根拠」とがどのような関係にあり、それは社会学においてどのように主題化されるのかという問題はここではおくことにする。ここで注意を促しておきたいのは、このような二項対立と著者の言う<出来事としての歴史/記述としての歴史>という対との関係についてである。著者はどうやらこの二つの対を重ね合わせて考えているようであるが、両者は微妙にずれているのではないだろうか。
例えば前方性健忘の場合、「言分け」が他者との会話(「記憶のトーク」)だとすると「身分け」は脳のある部位の機能障害ということになるだろう。「身分け」はある種の障害をもたらすが、それでも「言分け」がそれなりに機能していれば「記憶」は成り立つ。しかし、この場合「身分け」も「言分け」もともに現在において見いだされるものである。これに対して「記述としての歴史」と「出来事としての歴史」は、前者が記述がなされる現在に存在するのに対して、後者は「過去」にあるとみなされる。問題はこの「過去」をどのように扱うか、である。「過去」とは何であろうか。
念のために言っておけば、この問題は構築の相互行為性を強調することによってはいささかも回避できない。相互行為論のもつ現在主義的な志向性において「過去」をどう扱うのかということこそが問われているからだ。相互行為を強調することで「内面」や「心」から記憶現象を解除することはできる。では「過去」はどうなるのか。
さらに言えば、単に構築されざるものや語り得ないものがある、という留保をつけるだけでもこの問題を回避することはできない。上で見たように、「身分け」はそれ自体は語り得ないものであると考えられるが、必ずしも過去であるとはかぎらないからだ。語り得ないものがあるのはよいとして、それが「過去」にあるとは、どのようなことなのだろうか。
3、「過去」の社会学/「記憶」の社会学
先に「出来事としての歴史」について、それが「『過去』にあると見なされる」という書き方をした。「過去」とは何かという問いに対する一つの答え方は、この「見なされる」という点を最大限に重視することだ。つまり、「過去」とは「過去とみなされたもの」であると考えることである。いわば「記憶」と同様、「過去」もまた現時点での構築物(見なしの所産)であり、現在のバリエーションであると考えるわけだ。この場合「出来事としての歴史」はそれ自体は過去であるかどうかは問題ではなく、ただ「記述としての歴史」において「過去」として構築されるということになるだろう。
おそらく西阪やクルターの考え方を徹底させればそのような答えが出てくる。「過去」への言及もまたあるゲームの中の指し手のひとつである、と。「過去」の社会学とはその場合「記憶」の社会学と同じように、そういった指し手を規定する文法を探求する作業になるだろう。つまり、「過去」の社会学とは、「過去」についての社会学ではなく、「『過去』をめぐる現在の語り」についての社会学になるのである。
だが、著者はそのようなやり方を選択していないように見える。
例えば、本書7章や8章での議論は(あるいは前著の5、6、7章も)、突き詰めて言えば、<過去には・・・という語り・自己があったが、現在はそれとは異なる・・・という語り・自己がある>という形式をとっている。この<過去には・・・現在は・・・>という形式はどのような意味を著者にとってもっているのだろうか。例えば前著において著者は、戦後日本の自己語りの変遷をたどり、そこに一般的他者の縮小という流れを見いだしている。それ自体とても興味深いこの知見は、著者にとって、そのような過去についての語り方が「現在にある」という点において「発見」であるわけではあるまい。著者が主張したいのは、「過去」と「現在」の対比であり、言い換えれば、「過去」には「現在」のわれわれが意外に思うような対象があった、ということであろう。これは端的に「過去」についての社会学的な探求であるように思われる。ではそこでいう「過去」とは何であるのか。
本書においても、「状況的自己」、「集合的過去の縮小」、「物語の私化」といった概念はそれぞれ「過去」への直接的な参照を含んでいる。これらが過去についての分析であるということと、その分析がシンボリック相互作用論の立場からなされるということの間の関係はいかなるものであるのだろうか。