社会学におけるフロイト理解の標準
→「第二局所論」の優越 :エス・自我・超自我の三領域?
「人間は快感をもとめるエスと良心としての超自我の間で分裂しており、これをいかに調和させ統合していくかが課題となる」
エス・自我・超自我の位置関係→エスと超自我の対極性:内部と外部?
フロイトの図式:超自我を自我の横に配置し、超自我の下部はエスと繋がっているかのように図示
- ★「快感原則の彼岸」(1920年)
- フロイト精神分析誕生から四半世紀
- 快感原則と現実原則:内側からの力とその制御?
- →内側と外側の関係は予想外の複雑
- *第一次世界大戦
- :「戦争神経症」:速度と強度の空間に曝される人間→反復強迫:既に戦場を既に去っているにも関わらず、戦場での悲惨な体験を心的に繰り返す→自らを処罰?
- *分析治療の臨床場面
- :「陰性治療反応」:「解釈」と「想起」という作業への抵抗
→もっとも本質的なことが想起できない→分析医の解釈を確信出来ない→治るのを拒否するかのよう
→「患者は抑圧されたものを現在の経験として「反復する」しかない」
反復強迫は、大原則である快感原則よりも根源的?
- 快感原則の彼岸についての「思弁的な考察」
- →昔用いた「生ける小胞モデル」(中山元)の再登場
- *強力なエネルギーで満たされた外界に取り囲まれた小胞の一番外側の層
- →意識の発生:刺激の受容と刺激からの保護
- →一番外側の層が自ら無機的になる(死ぬ)ことで、内側を「死の運命」から守る
- 「刺激を受容することよりも、刺激から自らを保護することの方が重要な課題」
- *強度の刺激の到来/刺激の防御/死のテーマの交錯
「生ける小胞モデル」と反復強迫の密接な関係?
反復→元の状態への回帰:有機体から無機物へ→「死の欲動」?
「カントは、時間と空間がわれわれの思考の必然的な形式であると述べたが、精神分析によって得られた知見から、この命題は改めて検討することができるようになった」→「知覚—意識」システムによる「抽象的な時間表象」の発生
- ★「自我とエス」(1923年)
- 新たな出発点:「自我の無意識的機能」
- →陰性治療反応や戦争神経症において見られる反復強迫
- →副産物としての「死の欲動」
- →さらに、「超自我」という新概念の必要性
- *「第一局所論」:意識・(前意識)・無意識→二項対立
- *「第二局所論」:エス・自我・超自我→三項対立(?)
- 自我=意識=「理性」/エス=無意識=「情熱」では収まらない複雑さ
「第1節 意識と無意識」
「第2節 自我とエス」
「第3節 自我と超自我(自我理想)」→超自我概念の導入
*「自我が、知覚システムの影響によって修正されるエスの一部であり、心的なものにおいて現実の外界を代表するにすぎないものであれば、事態は単純であろう。」
エスと自我:馬と騎手
→「自分を上回る大きな力をもつ奔馬」:「自我は騎士の場合と同じように、馬から振り落とされたくなければ、馬が進みたい場所に行くしかない場合が多い」
「意識と確固とした関係を取り結んでいない」超自我:心的装置の中で果たす役割は教育的か?
←「現実検討」の機能はむしろ自我が担っていることの発見
無意識は理性では承認しがたい欲望の場か?
→自己批判や良心のような「社会的に高く評価される心の働き」が実は無意識的
→その証拠としての陰性治療反応
→背後にある「いわゆる「道徳的な」要因」
→「無意識的な罪責感」による自罰
→(意識レベルではなく)無意識レベルでの「道徳的満足」:治療上の難関
*無意識的な罪責感:「犯行の結果ではなく、その動機」→この罪責感が高まると「人間は犯罪者になりかねないことが確認されたのは、意外なことであった」
*無意識的な罪責感を生み出すもの→「無意識的なエスと密接な関係にある」超自我
超自我の形成と、自我の立場
:エスを統御できると同時に、エスに服することになる。(奔馬と騎手の関係)←超自我はエスを代表するから
自我の本質は「境界性」→調停者としての自我:外界と内界の媒介
→ただし、エスを外的世界の現実に一方的に順応させるわけではない
→エスの過酷な無意識的命令に「前意識的な合理化の衣装」を与えて、「現実の厳しさにエスが従順に従うかのような外見」を与える:大衆政治家的なご都合主義
- 超自我の形成→「いと深きもの」(外界と内界の戦い)から「いと高きもの」(道徳性をめぐる戦い)への舞台の転換
- →自我の板挟み状態
- :エスの荒々しい欲動と、超自我による仮借なき無意識的罪責感
- →自我は「自らの分解生成物によって滅びた原生動物と同じ運命をたどる」
- *「超自我の中で働いている道徳」の危険性
「快感原則の彼岸」・「自我とエス」
:超自我(受け入れやすい概念)と死の欲動(受け入れにくい概念)が同時に論じられた舞台→両者の不可分性
自我を真ん中に置いて、超自我とエスが両端?→自我・エス・超自我は並列関係?
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★柄谷行人「カントとフロイト—トランスクリティーク?」(2004年)
「カントとフロイトのトランスクリティカルな読解」(カントからフロイトの文化論を読む)→カントの永遠平和論(第1次世界大戦の破局において注目された)に新しい光→「敵対性という人間的自然が、いかにして国家の揚棄=世界共和国をもたらすのか」
*「前期フロイト的」:超自我は「外から」到来し、内面化されたもの:「他律的」
<「快感原則の彼岸」(1920年)における「死の欲動」概念の提起>
*「後期フロイト的」:超自我は「内から」生じる:「自律的」
「死の欲動と超自我とは切り離せない概念」
精神分析の枠組みの根本的転換
*「前期フロイト的」
:外的規範としての文化=超自我
→旧来のロマン主義的な考え
:「カントの「定言的命令」を共同体の規範と見なし、それによって、カントの主観的倫理学を「社会的事実」に翻訳できると考えたデュルケム、及びその流れにある社会学的思考」
*「後期フロイト的」
:「文化=超自我はそれ自体、死の欲動の派生物である」:真の革新
永遠平和論の「後期カント」と「後期フロイト」との「類似性」
→両者の重ね合わせ
→「後期カント」の先駆性:「前期フロイト」ではなく「後期フロイト」の視点によって
社会学的フロイト像
:超自我を自我の側に引き寄せて理解しようとする傾向
→エスの代理人であったり、超自我と密接な関係にある超自我像は、不可解
*超自我を知るためには死の欲動について知らねばならない。
*難解な死の欲動を理解するための鍵としての、分かりやすい「快感原則」
★向井雅明『ラカン対ラカン』(1988年)
「快感原則の彼岸」で描かれている快感原則は「純粋な形のものではなく、心的器官が実際に機能するために最低限の変更が加えられたもの」
「純粋な意味での」快感原則→死の欲動と一致する点がある?
→「科学的心理学草稿」(1895年):「生ける小胞モデル」の原型
*哲学的議論の出発点としての自然科学的な論文?
*柄谷
:超自我や死の欲動概念は、「精神分析の内部からは来ない」。
→第1次世界大戦という「歴史的な過程」から来る
→「「死の欲動」を歴史的な概念として読まねばならない」
:同時代からの横方向の影響
*向井 :超自我や死の欲動概念は、→自然科学的な(?)初期フロイトから来る:精神分析<以前>からの影響
★拙稿「快の論理構造」
「後期フロイト的」なものの革新性
←初期フロイトから
初期カント(後期カントではなく)の視点によって