本書は物語の「語りの構造」narative structureに着目して「社会とアイデンティティ」の弁証法の問題−いわゆる〈つくりつつつくられる〉関係の問題−に接近している。物語りには「構造論」・「行為論」・「自己論」の三つのパターン(「意味構築の形態」)がありうること、それぞれのパターンは「社会とアイデンティティ」問題の三つの可能的「社会文化的」コンテキストないし背景—「プレモダン」「モダン」そして「ポストモダン」——と〈親和的な関係〉に立つであろうことを仮定し、以下に述べる六つモノグラフ研究−第一章から第六章まで——を企画したのである。
第一章「『わたくし』という現象−宮沢賢治の詩を読む−」では、賢治の詩集『春と修羅』における「頬の赤いはだしの子ども」の目、「五輪峠」等の詩文を読みながら、読者としてのわたくしがいかにもそれらの現実を現に体験しているかのような気分になり、あるいは懐かしい思いに浸ることになるのはなぜか、そのわけを吟味する。賢治の詩論のマニフェスト「わたくしという現象」(1924)から着想を得て「自分のなかの社会」を捉えるアプローチ(「自己論」)を構想する。社会・他者・自己の存在が知覚、記憶や想像などによって「わたくし」の内部に「意味のゲシュタルト」として描き出される「心象の世界」にアプローチする試みである。社会的因果連関がわたくしの「身体」を媒介にして「心象」の世界、「意味の世界」として現出するさまを−「日常人のごく自然な世界に対する態度」と相関する現実の世界として−フッサールやアルフレッド・シュッツをも引用して、摘出している。
第二章「『あかずきんちゃん』にみるアイデンティティと社会」では民話の世界、「わたくし(自己)の物語世界」が成立する以前の物語世界について一つの読み解きがなされる。「あかずきんちゃん」をテーマにして民話の語り口、民話という「意味の構成形態」の「構造」的特徴を吟味する試みである。「社会とアイデンティティ」の問題は「あかずきんちゃん」のプロット、つまり「構造のパースペクティブ」の中でどのように語られているか。「あかずきんちゃん」は、むら、もり、あかずきんちゃん、おかあさん、おばあさん、おおかみ、かりうどなど子どもにもわかる平易なことばで筋立てられているが、この物語ははたしてまたいかなる歴史的現実に対して親和的関係に立つだろうか。「むら社会」の社会経済的構造(共同体的土地所有)や登場人物の「心の習慣」から−補論「むら共同体」に関するノートを含めて−この問題解決の筋目が見通される。
第三章「『恩』の構造−契約における非契約的要素の問題−」では「恩を返す話」(菊池寛)から着想を得て、日本の昔話とグリム童話にみる「語りの構造」の異同が検討に付される。物語におけるトポス(空間)的視座(地形学)、物語におけるクロノス(時間)的視座(歴史民族学)及び物語における社交(sociality)的視座(社会学)の三つの視座によって個々の物語の異同を篩にかけ、そこから「非契約的相互作用」の物語タイプ(日本の昔話に多い)と「契約的相互作用」の物語タイプ(グリムの童話に多い)を析出し、物語の異同(ホモロジーとヘテロジー)と歴史的社会的な現実(特に「むら社会の交通関係」)の異同との照合関係が吟味される。
第四章「『ロビンソン・クル−ソー』におけるアイデンティティと社会」では、ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』物語をテーマにして一つには物語・時代・作者について、二つには社会(科)学者による「ロビンソン・クルーソー」論の特徴についてふれながら、三つには「市民社会」成立期における「社会とアイデンティティ」問題の特質−「社会経済的構造」の諸範疇の変質(「土地」から「貨幣・商品・資本」へ)−が問題にされる。また「一人称単数のわたくし」によって語られるロビンソン物語の「語りの構造」に着目して、この物語における「私人」範疇成立の歴史的ならびに方法論的意義が明らかにされる。
第五章「『わたくし語り』とドストエトエフスキー」−『未成年』を現象学的社会学の目で読む−」では「わたくし語り」(自己論)の一典型としてドストエフスキーの小説『未成年』をテーマに取り上げる。身のまわりに厄介なもめ事が起こり、にっちもさっちもいかなくなると、もめごとの外部事情や内部事情などについてあれこれ詮索したりする。しかし「これだけは本人じゃないとわからないからね」といわれるように、同じ出来事も外部者の目でみるのと当事者の目でみるのとでは意味が違う。『未成年』における主人公アルカジージィ青年の「わたくし語り」が繰り広げる「自己−他者関係」の複雑なつながり(『盤根錯節』)を「精神・身体・他者の三幅対の図式」として示し、また『未成年』における「わたくし語り」の「語りの構造」を「会話・表現・叙述」の三範疇に区別して、この物語の編制を組織的に解剖している。
第六章「『からだ・こころ・他者』ノート−現象学的社会学のための若干の範疇−」では、大江健三郎の『日常生活の冒険』やサルトルの『存在と無』をテキストに選び、毎日の生活における毀誉褒貶——ネガティブ・ポジティブなサンクション−の意味の世界の現出、さらに自己と他者の出会い場面の「眼差しの交差」における「身体」の現れの諸相について現象学的(自己論的)・社会学的(制度論的)に考察している。特にサルトルにおける「からだの四つの位相(範疇)」論が引き金になって、第五章における「自己論」的ドストエフスキー論を結実させたという意味で、第六章は本書全体の「端緒的意義」をもつモノグラフである。
最後に、本書の理論的・方法論的立場および他の関連学説との関係について補足したい。本書において著者の理論的立場に関わって「現象学的社会学」という語をしばしば用いている。トーマス・ルックマンにならって現象学をその視座が〈自己論〉egologischであり、その方法が〈反省的〉reflexivである分析と定義すれば—— 「現象学的視座は自己論的であってコスモロジー的ではない。その方法は〈反省的〉であって帰納的ではない」[T.Luckmann, Phanomenologie und Soziologie, S.194 aus: A.S.u I.A.in Sw.] —— 「自己の状態のなかの社会 (他者) 」への注視、「わたくし語り」への着眼という本書の立場は、正確に表現すれば自己反省的な「社会 (他者)」の現象学というべきであろう。この視座と方法を共に強く意識した「社会の研究」は社会科学——科学は通常の意味では「コスモロギ—的であり、帰納・演繹的(「機能」的アプローチも「構造」的アプローチもその一変種である)である——のこれまでの理論史のなかではごく僅かである。一九世紀のマルクス、二〇世紀初頭のヴェーバーやデュルケム、二〇世紀後半期のアメリカの社会学者たち——パーソンズやマートン、リースマンやベラーなど——の研究をふりかえれば、社会(科)学の研究の諸成果は「社会の状態」の正しい認識をめぐる論争をとおして積み上げられてきた。「社会の状態の研究」でも、「社会の状態のなかの自己の研究」でもなく、「自己の状態のなかの社会の研究」(社会の現象学)へとその関心を転轍させる試みは目下のところまだ「僅か」である——いわゆる「わたくし語り」による「文学的」意味構築の世界は別として——。
本書は主題として個々に取り上げた「物語」を「自己」に内在する方向に掘り進めるなかで結果的にマルクスやヴェーバーの社会学とも触れ合い、これまでの「社会とアイデンティティ」問題を補完するアプローチとして「自己の状態のなかの社会(他者)論」という第三の道に行き着いたのである。構造論、行為論そして自己論は、それ故緊張関係に立ちながら相互補完しあえるのであって、三者を両立できないものと考える必要はない。むしろ三者はいわば三幅対の構造連関(「メヴィウスの輪」)にあると仮定することによって、「自己のなかの社会」の立ち現れが明視されうることを、本研究における考察全体が示している。本研究の理論的立場は、厳密な「社会の現象学」というよりは、やはり「現象学的社会学」なのである。