はじめに
■1:親密性 intimacy と匿名性 anonymity
■2:本報告の目的(小川解釈を批判的に検討しつつ)
(1)シュッツの親密性/匿名性概念が、類型的な経験にかかわるものであることを示す。
(2)シュッツの親密性/匿名性概念が、汝志向/彼ら志向概念とは独立であることを示す。
(3)シュッツの汝志向概念の、形式的概念としての含意を示す。
【1】シュッツの親密性/匿名性概念についての小川による解釈
■1:《解釈1》親密性/匿名性と汝指向(われわれ関係)/彼ら指向(彼ら関係)の等置:「汝指向と彼ら指向の対比は、特殊性と一般性、唯一性と代替可能性、一回性と反復可能性といった対比として理解してよいように思われる。われわれ関係を虚の光源とする、シュッツの匿名性の概念は、時間・空間の直接性の問題としてよりも、まずこのような他者志向のあり方の問題として理解した方が、理論の整合性が保障されよう」(小川 1980:21)。
- 親密性=特殊性・唯一性・一回性=汝指向(われわれ関係)
- 匿名性=一般性・代替可能性・反復可能性=彼ら指向(彼ら関係)
■2:《解釈2》親密性/匿名性のなかに2つの相があるという指摘
(1)機能的類型の匿名性(没名性):「匿名化は、いわば特殊性・唯一性・一回性を排除する作用」(小川 1980:22)。
(2)知られていないという意味の匿名性(無名性):「有名・知名の対としての匿名性は、個人の特定可能性とその個人についての知識の蓄積にかかわる」(小川 1980:22-3)。
【2】他者経験と匿名性/親密性
■1:親密性/匿名性のなかには2つの相があるのか?:《解釈2》について
(1)旅先で出会う他者:「旅先で出会う他者と私はお互いに無名であるが、思わぬ交感の体験への可能性を秘めている」(小川 1985: 269)。無名性の規準は固有名が無いこと。
(2)背番号制:「個別的に特定した他者を機能的類型として処理する関係」(小川 1985:268)。口座番号、保険証番号、学籍番号など。有名性の規準は個人が特定できること。
→無名性/有名性の規準がダブルスタンダードでは?:旅先の他者は特定されているし、保険証番号では固有名は失われている。
→機能的類型のもつ匿名性が特殊性・唯一性・一回性の排除であるならば、機能的類型のもつ匿名性が低い(つまり親密的な)状態とは、他者を、唯一の特殊的で一回的な存在であるととらえること。つまり、それは、他者を独自の個性的な存在であるととらえることであり、当然、他者を個別的に特定することを含んでいるはず。
→だとしたら、個人が特定できるかどうかという「有名性」の規準は、機能的類型のもつ匿名性の基準(一般性・代替可能性・反復可能性/特殊性・唯一性・一回性)にはじめから含まれていることになる。
→固有名とは、特定された他者の特殊性・唯一性・一回性の典型的な表象であるというべき。固有名を知ることは、他者を特定するひとつの典型的なやり方ではあるかもしれないが、固有名が知られていないことが他者が特定されていないことに直結するわけではない。
■2:匿名的/親密的であるのは何か?:「『他我 alter egos』をその内に含んでいる社会的世界は、中心に位置する自己の周りに様々な程度の親密性と匿名性をもって配置されている」(Schutz 1943→1964:70=1991:105)。「私は……この世界のなかで、様々な程度の親密性と匿名性のもとに知っている人びとと、多様な相互行為をとおして相互に関係し合っている」(Schutz 1954→1962:60=1983:124)。他者(に準じるもの)の経験のされ方としての匿名性/親密性。
■3:類型の匿名性/親密性
(1) 類型の匿名性/親密性:「われわれは……世界をはじめから類型性という様態のもとで経験している」(Schutz 1954→1962=1983:123)。「類型は、様々な程度に匿名的である」(Schutz 1970:57=1996:99-100)。
(2)類型が匿名的/親密的であるとは?→表1:「類型が匿名的であればあるほど、ますます多くの経験対象がその類型的な側面のもとにあるとみなされるようになる。だが、それと同時に、その類型はますます具体的 concrete でなくなり、その類型の内容はますます意義 significant をもたなくなる。……それゆえどの類型に関してみても、匿名性と内容充実性 fullness of content とは反比例の関係にある」(Schutz 1970 :57=1996:99-100)。「類型的な図式の具体性の程度は……諸体験の一般性のレヴェルと逆比例の関係にある」(Schutz 1932b→1964:49=1991:78)。親密な類型の典型例としての固有名。「フィドー」。
【3】匿名性/親密性と彼ら指向/汝指向
■1:匿名性/親密性概念は彼ら指向/汝指向概念と等価なのか?:《解釈1》について
(1)われわれ関係においてunique individual personality が経験される:「共通の生ける現在をわれわれは分有しているというまさにその理由のゆえに、われわれはお互いにとって、この独自な特定状況におけるこの独自で個別的なパーソナリティ unique individual personality たりうるのである。こういったことは……『純粋なわれわれ関係』と呼ぶことにしたい対面関係の諸特徴のいくつかなのである」(Schutz1932b→1964:109-10=1991:157)。
・ここでの”unique individual personality ” という語は、親密性を特徴づける語とほぼ重なるように見える。つまり、われわれ関係(=相互的な汝指向)と親密性は重ね合わせることができるようにみえる。
(2)匿名性/親密性は汝指向・われわれ関係から区別される:「だが、純粋なわれわれ関係は、空間と時間の共有に基づく諸々の社会関係の形式的構造にただ関係づけられているにすぎないということを理解することが重要である。その形式的構造は、親密性と匿名性の程度が様々に異なるきわめて多様な内容で満たされうる。愛する女性と生ける現在を分けもつことと、地下鉄で隣り合わせた人と生ける現在を分けもつこととでは、明らかに違った種類の対面関係なのである。ところが、クーリーの第一次集団の概念は、そのような社会関係の特定の内容──つまり親密性──を前提にしているのである。……ここでは親密性の範疇が対面関係の範疇からは独立したものであるといっておけば十分である」(Schutz 1945a→1964:110=1991:157-8)。
→ここでシュッツは、われわれ関係が、さまざまな親密性/匿名性によって満たされると述べている。つまり、両者は独立の概念であり区別されなくてはならない。
→また、シュッツは、クーリーの第一次集団概念を引き合いに出しながら、それが、われわれ関係と親密性との一致を前提にしていると批判している。だとすれば、この批判は小川にも同じようにあてはまるはずである。
→だとすると、”unique individual personality ”という語は、親密性と関係づけない仕方で理解されなくてはならなくなる。→■4
■2:彼ら指向・彼ら関係と類型的把握
(1)彼ら指向 They-orientation・彼ら関係 They-relation(Schutz 1932b→1964:44=1991:73)
- 彼ら指向:「同時代者に指向しているすべての意識作用」。
- 彼ら関係:「同時代者との社会関係」。
- 同時代者:同じ時代を生きているという意味で、私と時間を共有しているけれど、私と対面状況にないという意味で空間を共有していない他者(Schutz 1932b→1964:37-41=1991:63-8)。
(3)匿名性/親密性は、他者についての類型的な把握にかかわる概念であった(←【2】)。
(4)つまり、匿名性/親密性は、同時代者にかかわる概念である。
■3:汝指向・われわれ関係と何者でもない他者
(1)汝指向 Thou-orientation・われわれ関係 We-relation」(Schutz 1932b→1964:23-4=1991:47-8)
- 汝指向:対面状況において、他者の意識生に注意を向けること。
- われわれ関係:汝指向が相互的に成立している二者関係。
- 共在者 fellow-man:われわれ関係において経験される他者(Schutz 1932b→1964:22= 1991:45)。
(3)汝指向・われわれ関係の特徴:「お互いが進行中の生に関与し、相手の思惟を、それが一歩一歩構築されるに応じて、生ける現在の形で把握することができる……。要するに共在者たちは、お互いが相手の生活史に包絡されている、すなわち彼らは共に時を経ているのである」(Schutz 1953→1962:16=1983:65)。
- 時間的・空間的な「無媒介性」を特徴とする、対面状況にある私と他者との関係(Schutz 1932b→1964:24=1991:47)。
- 他者である共在者は、私にとって、「具体的な徴候の領野として」空間的に現前する身体(Schutz 1932b→1964:24=1991:47)。私は、刻々と更新されるその時間的な変化を、リアルタイムで経験できる。
・「純粋な相互的汝指向は、相手の個別的特性の把握を必ずしも必要としてはいない……純粋なわれわれ関係のなかで私が把握しているのは、単に他者の存在と、その他者が自分の目の前にいま現にいるという事実だけである」(Schutz 1932b→1964:27=1991:51-2)。
・「他者が目の前にいると認識することが、汝指向の本質的な特徴である。汝指向は、その他者に特有の特徴が精確になんであるのかを知ることを前提にしてはいない」(Schutz 1932b→1964:25= 1991:48)。
→汝指向やわれわれ関係において把握されるのは、ただ他者の存在──他者がそこにいるということ──だけである。そこではこの他者の「個別的内容は未規定のまま」(Schutz 1932b→1964:25=1991:48)。
→「現存在 Dasein 」(≠「相在 So-sein 」)(Schutz 1932a=1982:225)。
(5)「前述語的な体験」としての汝指向・われわれ関係(Schutz 1932b→1964:25= 1991:48)
・汝指向・われわれ関係は、無媒介的な経験である。つまり、類型を用いない経験である。それゆえ、“かくかくしかじかの”他者は経験され得ず、もちろんだから他者を何らかの匿名性/親密性の下でも経験できない。そこでは他者の存在だけが体験される。
・汝指向・われわれ関係はは、“かくかくしかじかの”という他者についての述語的把握以前の場所として設定されている。
■4:〈独自で分割不能な人間であること〉としての”unique individual personality ”
・邦訳では「独自で個別的なパーソナリティ」という訳。しかし、この訳では、他者の類型的な把握のように見えてしまう。とくに「個別的」「パーソナリティ」という語。
・”individual“ は、そこで経験される他者は類型によって分節化されていないという意味で、「分割不能な」と訳すべきか。
・“personality”は、そこに人が存在しているということのみを指すがゆえに「人間であること」とでも訳すべきか(⇔個性的 personal 、個別的 particulary)。
■5:形式的な概念としての汝指向・われわれ関係
(1)「形式的な概念」としての汝指向・われわれ関係(Schutz 1932b→1964:24=1991:48):述語によって、類型によって、満たされるべき、いわば中味の入っていない器、具体的な誰々との関係という内容がもられるべき形式。
→「極限概念」としての「純粋な汝指向」「純粋なわれわれ関係」(Schutz 1932a=1982:226):(小川が誤解しているように、それが親密性の極限にあるからではなく)それが類型的把握の──それゆえ匿名性/親密性の──前提として、論理的に設定された形式的な概念だから。
(2)実現化(具現化) actualized:純粋な汝指向や純粋なわれわれ関係は「つねに様々な程度の具体性と個別性をもって実現されている actualized」。それらは「実際には『純粋』ではなく」、「実際にはつねに『内容』によって充実されている」(Schutz 1932b→1964:25= 1991:48)。→具現化された actualized 汝指向・われわれ関係。
(3)汝指向・われわれ関係を満たすもの:「親密性と匿名性の程度が様々に異なるきわめて多様な内容で満たされうる」(Schutz 1932b→1964:109-110=1991=157)。
(4)匿名性/親密性と彼ら指向/汝指向(彼ら関係/われわれ関係)は等置できない:小川のように、汝指向を親密性と等置することは、シュッツの議論についての大きな誤解を招くことになる。純粋な汝指向・われわれ関係は、匿名性/親密性が成立しうる類型性という内容を欠いた形式として設定されている。そして、それが内容としての類型に満たされ実現されるとしても、この関係を満たしうるのは、親密的な類型だけではなく、さまざまな匿名性/親密性の程度をもつ多様な類型だからである。むしろ、純粋な汝指向や純粋なわれわれ関係については、あえてシュッツの意図とは異なる意味で言葉を用いるとすれば、何者でもない、ただの存在、という仕方で他者が把握されるかぎりにおいて、それは、非常に「匿名的」な仕方での他者の把握であるとさえ、いうべき。
(5)アクトの系列/アクションの系列:「シュッツは、ある事態を、『〜として』把握されたもの(類型化されたもの)としてのその事態という位相において捉えるという方向(アクトの系列)と、その事態がまさに進行している過程という位相において捉えるという方向(アクションの系列)とのふたつの軸をもっていたのではないだろうか」(矢田部 1998:160-2)。

【4】汝指向・われわれ関係という形式的な概念の示唆すること
■1:親密な経験の前提として:「相手の個別的な諸特性を把握するということは、純粋なわれわれ関係を特徴づける時間と空間の共有を前提にしている」(Schutz 1932b→1964:28=1991:52)。ただし、あくまでも可能性を担保するものとして。
■2:類型化を保障する仕組みとして ・類型の変様→前提としての同一性の保持。 ・類型化の基本構造:あるものを、かくかくしかじかとみなす。類型化されるもの/類型。 ・「純粋なわれわれ関係は、対面状況にある具体的な社会関係に対して論理的に先行している」(Schutz 1932b→1964:28=1991:52)。 ・類型化に先行する(はずの類型化以前の)他者の「存在」を保障する仕組み。 【5】覚え書きとして:いわゆる《親密性》とのかかわりで
■1:《親密性》という問題 (1)人称的な他者との身体的共在:「親密圏は、さしあたり具体的な他者への生への配慮/関心をメディアとするある程度持続的な関係性として定義することができよう。まず具体的な他者とは、一般的な他者とは異なって人称性を帯びた他者であり、そうした他者との関係性は『他ならぬ』という代替不可能性を幾分かは含んでいる。次いで、生への配慮/関心が人びとの関係をつなぐということは、具体的な他者のほとんどは、身体性をもった存在者(embodied beings)であり、私たちはそうした他者との関係を生きることによって、その生の欲望や困難に否応なく曝されるようになる」(斉藤 2003:vi-viii)。 (2) 安全さ・不安のなさ:「親密圏は、生の歓びや生の意味にかかわるだけでなく、『生の保障』(security of life)にもかかわっている。セキュリティ(安全さ/不安のなさ)という言葉を最も広い意味で用いるとすれば、親密圏の政治は生の保障/生きる場をめぐる政治とも不可分の関係にある」(斉藤 2003:vi)。
■2:シュッツの文脈から《親密性》を考えるために
(1)親近性(慣れ親しみ)familiarity /異邦性(不慣れさ)strange(ness)
・「親近性とは、新たな体験をその類型に関して、すでに獲得されている習慣的な知識集積に関係づける見込みを示している」。「親近性は……当面の実際的な目的にとって十分な程度、経験対象に精通しているという意味である」(Schutz 1970:58-9, 61=1996:101, 103)。
・「新たな体験 a new experience は、必ずしも新奇な novel 体験であるわけではない。それは新たなものではあろう。だがそれは……その類型に関しては依然として親近的なものであるかもしれない。……新たな体験は、その類型に関しては親近的であるが、それが独特で個別的 uniqueness and particularity である点では没類型的 atypical であり、その限りでそれは異邦的である」(Schutz 1970:56=1996:98-9)。→ある対象は、つねに、親近的である(←何らかの意味で類型化されている)と同時に異邦的である(←その経験はかならず“このとき-この場所で”という一回的な経験である)。
(2)親密的な経験への/からの変様 (←【4】(1))
・汝指向・われわれ関係を安定的に形成すること((回復可能に保つこと?)が、他者についての親密的な経験を可能にする。
・汝指向・われわれ関係から離脱すること(回復困難になること?)は、他者についての親密な経験を匿名化するのか。
→時間的空間的な隔たりと親密的/匿名的な経験との関係。
→「彼の帰る故郷は、決して、そこを後にしたその時の故郷、もしくは留守にしている間に思い起こしたり望郷の念にかられた故郷ではない。そして同じ理由から、帰郷者は故郷を後にしたその時と同一人物ではない。彼は、自分自身にとっても、彼の帰郷を待ちわびる人びとにとっても同一の存在ではない」(Schutz 1945a→1964=1991:164)。
(3)承認としてわれわれ関係?(←【4】(2))
・ルックマンの解釈:現存在(類型化以前の他者)=「生命をもち意識を持った人間」(Schutz 1932b→1964:25=1991:48)。
←この表現が含まれる「社会的世界の諸次元」論文は、ルックマンが、シュッツの『社会的世界の意味構成』(Schutz 1932a=1982)の第4章を「凝縮した形で書き改め」たもの(Brodersen 1964:XII=1991:12)。おそらくルックマンが参照したと思われる『社会的世界の意味構成』の箇所には、次のようにある。「汝定位は、私がある直接世界の人間 ein Umweltliches を同僚として(汝として)認め、同時に彼に生、つまり意識を述語することによってもっぱら構成される。しかしこの言い方は事態を正しく扱っているとはいえない。ある述語的判断が問題ではなくて、汝がある自己として体験される前述語的経験が問題なのである」(Schutz 1932a:228=1988:224-5)。ルックマンの翻案とは、だいぶ温度差があるか?
・もし、この解釈が可能だとすると、汝指向・われわれ関係は、わたしたちが、まず「生命をもち意識を持った人間」として現前する場所であり、そのようなものとして指向される場所であることになる。それは、人間として存在することへの一種の承認の場であるといえるかもしれない。汝指向・われわれ関係には「承認」という契機は含まれているのか。
←しかし、あきらかに「生命をもち意識を持った人間」は、特定の内容をもった類型であるようにも思われる。やはり、汝指向・われわれ関係は〈形式的〉とすべきか。